男臭い熱気が渦巻き、女性ファンが固唾を呑んで主のいないリングを見つめている。
10月29日の後楽園ホール――。
日常と非日常が交錯する時間が始まろうとしていた。

36歳の小野成大は何度もこのリングに立ってきた。
負けても、負けても這い上がり、またこの場所へと辿り着いた。

もう2年以上も前のことになる。
1ラウンドを優勢に戦っていた小野はたった一発のカウンターパンチで
このリングのマットに沈んだ。
目の前の2勝目がするりと逃げてしまった。

それでもボクサーとしての小野の旅は終らなかった。
しかし、プロボクサーは37歳で原則、強制引退となる。
来年1月で37歳を迎える小野にとって、
この日は最後のファイトになるかも知れないのだ。

前々日、小野は僕のところに体の手入れに来た。
なかなか疲れが取れないという彼はこの試合に向けての数ヶ月、
毎週のように体を揉み解しに来ていた。
古傷を抱える体はベストとはいえないものの、
日々のトレーニングと定期的な手入れの効果もあって、
今まで以上に柔軟かつ強靭に仕上がっていた。

小野と関わるようになって4年、まだ1勝しかしていないという戦績と
30半ばまでボクシングに拘る彼の人生に僕は単純に興味があった。
運送業や郵便配達をしながら、ボクシングに捧げた日常。
穏やかな人柄とその風貌もボクサーとは不釣合いなようで心惹かれるものがあった。
弱さも語れば、足りない部分も素直に認める。
彼は自分自身に嘘をつかない男だった。

戦績は1勝12敗2分――勝つにしろ、負けるにしろ、
小野にとってこの一戦はこれからの自分の人生へと、
新たな舵を切る試合となるに違いない。

【つづく】

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