「こちらに来て思ったのですが、欧州では自由にスポーツをやることが可能です。そして、すべてが自分の責任です。練習をどれだけしようが、どれだけ試合に出場しようがです。それに全てが合理的です。怪我しそうになったら休む。バドミントンに長距離はいらない。短距離をたくさんやる。試合で強くなる」
田中雅彦はオーストリアのプロのバドミントン選手として、世界を舞台に活躍してきた日本人選手だ。日本にいた頃の彼は目立った戦績は残していない。しかし、彼が中学で出会ったバドミントンはオーストリアの地で大きく開花し、48歳になった今も尚、現役選手として、オーストリアのコートに立っている。
田中が青春時代を過ごした頃の日本のスポーツ界は、まだまだ非効率な根性主義や厳しい上下関係が称賛される部活動全盛の時代だった。高校時代に指導を受けた大学生のコーチも熱心ではあったが、非効率な練習を課すところのある指導者だった。体罰こそなかったものの、どんなに辛くても練習を休ませてくれない。単調な素振りやフットワークの繰り返しに加え、ただ苦しめられるだけのようなトレーニング。全国レベルの強豪校でもないのにしごかれる日々を田中は仲間たちと共に過ごした。
もちろん、心の内に不満はあった。でも、それが当時の日本の学校スポーツ界の現状だったと田中は振り返る。ただ、彼が優れていたのは、そんな状況でも吸収できるものはなんでも取り入れようとしたことだった。
「フットワークだけではなく、特にロブの上げ方、低い姿勢でのドライブ、ダブルスのフォーメーションはあの時学んだことがそのまま生かされています。不思議なもので、若い時に学んだことは良いことも悪いこともそのまま残っています。例えば、バックハンドでのサーブ、オーバーバックハンド、ワイパーショットは高校時代に習得しなかったので今でも苦手です」
そして――
「高校時代に鍛えたフットワークはオーストリアではほぼ最速レベルでした。シングルスはこのおかげで勝ってきたと言っても過言ではありません」
高校を卒業した田中は京都外国語大学、同大学院で勉強したドイツ語を活かし、在オーストリア日本大使館でドイツ語のエキスパートとして勤務している。ウイーンで暮らす彼は本職の傍ら、プロのバドミントン選手として、オーストリア国内で数々の大会にチャレンジしているのだ。今では仕事とバドミントンを見事に両立し、オーストリアでの生活にすっかり溶け込んでいる。
元々彼は、バドミントンのためにオーストリアに渡ったわけではない。バドミントンのプロになったのも、就職してオーストリアに派遣され、たまたま現地のホビーのバドミントン大会に参加したことがきっかけだった。その時、田中はあるクラブチームからスカウトされ、それが世界に羽ばたく始まりだった。夢を掴んだのではなく、夢の扉へと向こうから導いてくれたようなものかもしれない。好きだからずっとバドミントンは続けてきた。だからこそ、向こうからチャンスがやって来たわけだった。
2605試合1502勝1103敗(2015年11月現在)――彼のホームページにはその戦績が記載されている。膨大な試合数に加え、敗戦もそれなりに多いことがわかる。また、1994年から2015年までのリザルトの欄を見ると、オーストリア代表として参加した大きな国際大会から地元の小さな大会、それに加えて帰国した際に参加したと思われる故郷の地域の大会の結果まで詳細に記されている。横浜の町から世界へと羽ばたいた田中らしい戦歴の紹介は、なんとも微笑ましく、その謙虚で真面目な性格が伺えるようだ。
そんな田中の戦歴としてのトップシーズンは全英オープンやジャパンオープンにも参戦した2001年、2002年のシーズンと言えるだろう。2001年のジャパンオープンでは後に世界ランキング1位となり、北京、ロンドンのオリンピックで銀メダルを獲得したリー・チョンウェイ選手(マレーシア)とも対戦した。世界のトップ選手と対戦し、尚且つ歴史ある全英オープン、強豪選手が集うジャパンオープンに出場することは、簡単にできることではない。田中はそれをオーストリアの代表としてやってのけたのだ。
田中のプレースタイルはフットワークを活かして拾いまくる守備型。力で押してくるタイプが多いヨーロッパ選手に対して、ミスをせずにじっと耐え、相手のスタミナを奪いにいく。黙々と長いラリーを続ける田中のバドミントンスタイルは、単身オーストリアに渡り、家庭を築き、自分の居場所を作り上げた彼自身の人生にかぶるようでもある。
無名の存在からプロへと躍進した田中を慕うバトミントン選手も多い。また、日本代表チームの若手がオーストリア国際に出場する際には、そのサポートも買って出ている。田中は選手としてだけではなく、日本のバドミントン界を後方から支え、地元の選手のバドミントン指導にも関わっている。彼は今、日本、オーストリア両国のバドミントン界にとって大切な存在のひとりになっている。
晩秋の休日、僕は思い立って田中雅彦の母校、神奈川県立鶴見高校の周辺に行ってみた。静かな住宅街の中に佇む高校の校舎は古く、その歴史が感じられ、地元では「県鶴」、「鶴高」の愛称で呼ばれている。田中が過ごした1980年代と比較しても、その趣もあまり変わっていないだろう。
高校の周囲を歩いていると、田中が汗を流した体育館が見えた。やはり外見は古く、所々傷んだ箇所が目に付く。この高校と限らず小さな町の部活動で青春時代を過ごす若者は今も昔もたくさんいる。そこから世界へと羽ばたく者はほんの一握りだ。しかも、その多くが強豪校や強豪チームの出身者か、練習環境に恵まれ、チャンスをものにしていくスポーツエリートたちだろう。それが、日本のメディアを賑わすスポーツ選手たちの現状と言える。
翻って田中はと言うと、当時のどこにでもあるごく普通の部活動の出身で、練習環境も全く持って普通のものだった。しかし、そこからの彼は確かに違った。日本独特の部活動と言う環境の中で自分の力を蓄え、仕事を通じてオーストリアに行くことになり、他の誰でもないオンリーワンのバドミントン選手になった。ラケット1本を携え、田中しか歩けない道をひとり歩き、見事に世界へと羽ばたいたのだ。
落ち葉の散る高校周囲の歩道はもの静かだ。時折、部活に来たであろう田中の後輩たちとも出くわす。ゆっくり歩きながら田中の住むオーストリア、ウイーンの景色を想像してみた。そして、今もオーストリアのどこかの体育館でコートを走る彼に思いを馳せた。
※MASA’S HOMEPAGE - 田中雅彦オフィシャルサイト
http://members.chello.at/tnk-web/masa/
田中雅彦はオーストリアのプロのバドミントン選手として、世界を舞台に活躍してきた日本人選手だ。日本にいた頃の彼は目立った戦績は残していない。しかし、彼が中学で出会ったバドミントンはオーストリアの地で大きく開花し、48歳になった今も尚、現役選手として、オーストリアのコートに立っている。
田中が青春時代を過ごした頃の日本のスポーツ界は、まだまだ非効率な根性主義や厳しい上下関係が称賛される部活動全盛の時代だった。高校時代に指導を受けた大学生のコーチも熱心ではあったが、非効率な練習を課すところのある指導者だった。体罰こそなかったものの、どんなに辛くても練習を休ませてくれない。単調な素振りやフットワークの繰り返しに加え、ただ苦しめられるだけのようなトレーニング。全国レベルの強豪校でもないのにしごかれる日々を田中は仲間たちと共に過ごした。
もちろん、心の内に不満はあった。でも、それが当時の日本の学校スポーツ界の現状だったと田中は振り返る。ただ、彼が優れていたのは、そんな状況でも吸収できるものはなんでも取り入れようとしたことだった。
「フットワークだけではなく、特にロブの上げ方、低い姿勢でのドライブ、ダブルスのフォーメーションはあの時学んだことがそのまま生かされています。不思議なもので、若い時に学んだことは良いことも悪いこともそのまま残っています。例えば、バックハンドでのサーブ、オーバーバックハンド、ワイパーショットは高校時代に習得しなかったので今でも苦手です」
そして――
「高校時代に鍛えたフットワークはオーストリアではほぼ最速レベルでした。シングルスはこのおかげで勝ってきたと言っても過言ではありません」
高校を卒業した田中は京都外国語大学、同大学院で勉強したドイツ語を活かし、在オーストリア日本大使館でドイツ語のエキスパートとして勤務している。ウイーンで暮らす彼は本職の傍ら、プロのバドミントン選手として、オーストリア国内で数々の大会にチャレンジしているのだ。今では仕事とバドミントンを見事に両立し、オーストリアでの生活にすっかり溶け込んでいる。
元々彼は、バドミントンのためにオーストリアに渡ったわけではない。バドミントンのプロになったのも、就職してオーストリアに派遣され、たまたま現地のホビーのバドミントン大会に参加したことがきっかけだった。その時、田中はあるクラブチームからスカウトされ、それが世界に羽ばたく始まりだった。夢を掴んだのではなく、夢の扉へと向こうから導いてくれたようなものかもしれない。好きだからずっとバドミントンは続けてきた。だからこそ、向こうからチャンスがやって来たわけだった。
2605試合1502勝1103敗(2015年11月現在)――彼のホームページにはその戦績が記載されている。膨大な試合数に加え、敗戦もそれなりに多いことがわかる。また、1994年から2015年までのリザルトの欄を見ると、オーストリア代表として参加した大きな国際大会から地元の小さな大会、それに加えて帰国した際に参加したと思われる故郷の地域の大会の結果まで詳細に記されている。横浜の町から世界へと羽ばたいた田中らしい戦歴の紹介は、なんとも微笑ましく、その謙虚で真面目な性格が伺えるようだ。
そんな田中の戦歴としてのトップシーズンは全英オープンやジャパンオープンにも参戦した2001年、2002年のシーズンと言えるだろう。2001年のジャパンオープンでは後に世界ランキング1位となり、北京、ロンドンのオリンピックで銀メダルを獲得したリー・チョンウェイ選手(マレーシア)とも対戦した。世界のトップ選手と対戦し、尚且つ歴史ある全英オープン、強豪選手が集うジャパンオープンに出場することは、簡単にできることではない。田中はそれをオーストリアの代表としてやってのけたのだ。
田中のプレースタイルはフットワークを活かして拾いまくる守備型。力で押してくるタイプが多いヨーロッパ選手に対して、ミスをせずにじっと耐え、相手のスタミナを奪いにいく。黙々と長いラリーを続ける田中のバドミントンスタイルは、単身オーストリアに渡り、家庭を築き、自分の居場所を作り上げた彼自身の人生にかぶるようでもある。
無名の存在からプロへと躍進した田中を慕うバトミントン選手も多い。また、日本代表チームの若手がオーストリア国際に出場する際には、そのサポートも買って出ている。田中は選手としてだけではなく、日本のバドミントン界を後方から支え、地元の選手のバドミントン指導にも関わっている。彼は今、日本、オーストリア両国のバドミントン界にとって大切な存在のひとりになっている。
晩秋の休日、僕は思い立って田中雅彦の母校、神奈川県立鶴見高校の周辺に行ってみた。静かな住宅街の中に佇む高校の校舎は古く、その歴史が感じられ、地元では「県鶴」、「鶴高」の愛称で呼ばれている。田中が過ごした1980年代と比較しても、その趣もあまり変わっていないだろう。
高校の周囲を歩いていると、田中が汗を流した体育館が見えた。やはり外見は古く、所々傷んだ箇所が目に付く。この高校と限らず小さな町の部活動で青春時代を過ごす若者は今も昔もたくさんいる。そこから世界へと羽ばたく者はほんの一握りだ。しかも、その多くが強豪校や強豪チームの出身者か、練習環境に恵まれ、チャンスをものにしていくスポーツエリートたちだろう。それが、日本のメディアを賑わすスポーツ選手たちの現状と言える。
翻って田中はと言うと、当時のどこにでもあるごく普通の部活動の出身で、練習環境も全く持って普通のものだった。しかし、そこからの彼は確かに違った。日本独特の部活動と言う環境の中で自分の力を蓄え、仕事を通じてオーストリアに行くことになり、他の誰でもないオンリーワンのバドミントン選手になった。ラケット1本を携え、田中しか歩けない道をひとり歩き、見事に世界へと羽ばたいたのだ。
落ち葉の散る高校周囲の歩道はもの静かだ。時折、部活に来たであろう田中の後輩たちとも出くわす。ゆっくり歩きながら田中の住むオーストリア、ウイーンの景色を想像してみた。そして、今もオーストリアのどこかの体育館でコートを走る彼に思いを馳せた。
※MASA’S HOMEPAGE - 田中雅彦オフィシャルサイト
http://members.chello.at/tnk-web/masa/