始まりの夜・最終回
土曜の夜の都心は空いている。
高木の車が東京タワーを正面に捉えた。
「小野さん、ボクシング自体もやめちゃうんですかね……」
高木の言葉が心に重く響く。
 
「今度3人で飲みたいですね」
偶然だったのかもしれないし、ほんの一瞬だったのかもしれない。
同じ場所で同じ空気を吸ったもの同士、
小野の話を肴に杯を傾けることも悪いことではないような気がする。
「そうだね。近い内に小野さんに連絡してみるよ」

数日後――小野と会い、彼の思いを聞く機会があった。

「嫌いでやめるわけではないですからね……やっぱり淋しいですよ」
 
小野は2勝目を掴むことができなかった。
でも、彼はプロボクサーとしての道を全うした。
志し半ばで引退するボクサーも多い中、
小野はとうとう最後までやり切った。

それに――
2勝目はこれからの人生で勝ちとれば良いのだから。

【完】

※写真撮影・高木俊幸
始まりの夜・5
4ラウンドを最終ラウンドというのは
あまりにも早いラウンドかもしれない。
小野はプロデビューから、ずっと4回戦を戦い続けてきた。
あがき、もがき、じっと耐えながら最後まで4回戦ボーイだった。

セコンドにいる会長が小野を励まし、
観客席からは応援する多くの人たちが勝利を祈っている。
カメラを握る高木もリングの下でボクサーとしての小野の姿を追っている。
小野は何かを掴めるのだろうか――
僕は余計な心配をしながら、リング中央に向う彼を見つめた。

最終ラウンドは小野も相手ももう気力だけで戦っているようだった。
ロープを背に自分のボクシングをやり切る小野は、
へたばる肉体に鞭を打ち戦っている。
3分という時間は長いのか、短いのか。

小野はこのラウンド、決して逃げはしなかった。
思うにままならぬ足を引きずり、
疲れ切った腕に魂を込めてパンチを打ち続けた。
 
判定になれば微妙な状況だ。
それでも自分自身に打ち克つためには自分自身を信じ切るしかないのだ。
小野はラストラウンドの180秒も自分のスタイルを貫き通した。
 
判定が下された時、会場はわずかにどよめきが起こった。
僅差ながら3人の審判のポイントは全員、相手が上回っていた。
小野の表情が穏やかに崩れた。
プロボクサーとしての彼の旅が終った瞬間だった。

「送ってきますよ」
次の試合をぼんやり眺めていると、撮影を終えた高木が傍に来た。
小野とはまたゆっくり会えばいい。
高木の好意に甘えて、僕は送ってもらうことにした。
話し相手が欲しい気分だった。

【最終回につづく】

※写真撮影・高木俊幸
始まりの夜・4
始まりの夜・4
小野は自分ではどうすることもできない体の重さを感じていた。
戦い続ける気持ちの炎は消えるはずもない。
相手のパンチも今は怖くない。
自分を応援してくれた人たちのためにも
何としても勝たなくてはいけないのだ。
第3ラウンド、相手は若さと前への推進力を武器に
小野を何度もロープに追い詰めていた。

「小野さん、足、足!」
「動いて!」

重くなる足を必死に動かし、小野は防戦を強いられていた。
それでも小野は耐えた。
時に反撃を試み、時にクリンチで相手に抱きつき、
テクニックを駆使し、できること全てを出し切っている。

小野の顔が歪む。そしてすぐさま相手を睨み付ける。
普通の生活をしている僕たち大人がどこかに置き去りにしてしまった必死の形相だ。
とても倒せとは言えない。
その顔を見ていると倒れるな、踏ん張れと念じることしかできなかった。

試合の数ヶ月前――。
小野は引退後の道を真剣に模索していた。
「手に職をつけたいと思っているんです」
小野は鍼灸マッサージの専門学校への入学を目指して、
トレーニングの傍ら東京、横浜、静岡にある専門学校の説明会に足を運んでいた。
引退を間近に控えた小野にとってはボクシング同様、
次の進路は大切なことだった。

「心気一転、頑張ってみます」
小野が選んだのは熱海にある専門学校だった。
どうせなら地元から離れて、新鮮な環境で勉強に取り組もうと彼は思った。
それからは仕事とトレーニングの傍ら、受験勉強も日常に加わった。
試合の約1ヶ月前、小野は努力の甲斐もあって無事合格した。
新たな人生へのチケットを手に入れ、この試合を迎えることができた。

第3ラウンドを小野はどうにか凌いだ。
手数では相手が上回っている。
それでも決定的なパンチは避けられた。
しかし、小野も相手へダメージを与えるパンチは打てなかった。

倒れるものか、倒してやる――
小野は自由の利かない体に鞭を打つように、自分自身に言い聞かせていた。

【つづく】

※写真撮影・高木俊幸
始まりの夜・3
始まりの夜・3
始まりの夜・3
セコンドにはジムの会長がいる。
家族、友達、ジムの仲間……。
小野を応援し続けてきた人たちの視線が一点に集中する。

ゴングが鳴り、開始早々から素早い動きで両者の打ち合いが始まった。
相手は27歳、小野と同様、2勝目をもぎ取るための一戦だった。
前へ前へと積極的に攻めてくる相手に、小野はフットワークを駆使して応戦する。パンチを出しては離れ、リングを上手く使って
持ち前のアウトボクシングをやり切っている。
 
「小野さん、いいよ!」
「ガードも高い」
僕の周りではジムの仲間たちが小野に声援を送っている。
小野は前回の教訓を生かして、積極さの中に細心の注意を含ませながら躍動していた。
序盤、両選手から鮮血がほとばしった。
偶然のバッティング、小野は左目の上から、相手は額から血が流れた。
本当の戦いはここからだった。

2ラウンド、小野は1ラウンドの勢いのまま優勢に試合を進める。
「小野さん、スパーよりいいよ」
隣の男性が興奮気味に話す。確かに僕の目にもそれがわかる。
過去2試合よりも動きの切れ、攻守の切り替え、状況判断がいい。
この一戦に人生を賭ける気持ちが体中から湧き出ているようだ。

左ジャブ、右フック、ストレート、
単発ながら小野の繰り出すパンチがクリーンヒットする。
しかし、相手も決して怯んでいない。
額から血を流しながらも決して前へ出ることをやめない。
色白の肌が、褐色の小野とは対照的だ。

お互いがお互いの持ち味を出し切れるか否か、己を信じきれるか否か。
背負うものもある。不安もある。それでも目の前にいる相手にパンチを打つ。
改めて思った。小野はこんなにも凄まじいスポーツにずっと関わっていたんだと。
2ラウンドの3分が激しく、そして瞬く間に終った。

【つづく】

※写真撮影・高木俊幸
始まりの夜・2
小野のスーパーバンタム級の4回戦は2試合目だった。
予定では午後6時20分頃にゴングとなる。

来てくれ――
僕は観客席で友人の写真家、高木俊幸を待っていた。
小野のことに興味を持った高木が仕事の合間に顔を出してくれることになっていたのだ。
「試合前に高木さんに控え室に来て貰っても構いませんから」
小野にはそういわれていた。
プロボクサーとしての確かな証を
プロカメラマンの腕を借りて残しておきたかったのかもしれない。

第1試合のゴングが鳴って間もなく、携帯電話が揺れた。
「今そっちに向ってます。まだですよね」
「1試合目が始まったよ」
「急ぎます」
高木からの電話だった。

1試合目は幸いにして、両選手が粘り強く攻め合う長い試合になっていた。
観客席からは控え室から姿を現した小野が見えた。
この試合の為に友人から借りた黒いトランクスの両サイドには白いラインが光っている。
上半身を黒いTシャツに身を包んだ彼は軽快にフットワークをしながら、
青いグローブを小刻みに揺らしていた。
いつもの笑顔も見える。
程よい緊張感に包まれたベテランボクサーは
普段会う時よりも一回りも二回りも大きく見えた。

いける、大丈夫だ――僕はそう思った。その時、再び携帯が揺れた。
「今、ホールの下にいます」
すぐさまチケットを掴み、入口へと駆け出した。
「すみません!」
カメラを抱えた高木は既に臨戦体制になっている。
「もう通路に出ているよ」
高木は階段を駆け降り、小野の傍へと走った。
挨拶もそこそこにジム仲間と一緒にファイティングポーズをとる小野。
仲間たちとカメラを見つめる小野の視線が静かに燃えている。
彼はこの試合の始まりから終わりまでを初対面のカメラマンにも託したのだ。

そのすぐ後、僕はこの日、小野と初めて目が合った。
右拳を握って眼差しでエールを送る。
小野は黙って頷き、軽く微笑んだ。
いつもとは違う力の篭った笑顔だった。

【つづく】

※写真撮影・高木俊幸
男臭い熱気が渦巻き、女性ファンが固唾を呑んで主のいないリングを見つめている。
10月29日の後楽園ホール――。
日常と非日常が交錯する時間が始まろうとしていた。

36歳の小野成大は何度もこのリングに立ってきた。
負けても、負けても這い上がり、またこの場所へと辿り着いた。

もう2年以上も前のことになる。
1ラウンドを優勢に戦っていた小野はたった一発のカウンターパンチで
このリングのマットに沈んだ。
目の前の2勝目がするりと逃げてしまった。

それでもボクサーとしての小野の旅は終らなかった。
しかし、プロボクサーは37歳で原則、強制引退となる。
来年1月で37歳を迎える小野にとって、
この日は最後のファイトになるかも知れないのだ。

前々日、小野は僕のところに体の手入れに来た。
なかなか疲れが取れないという彼はこの試合に向けての数ヶ月、
毎週のように体を揉み解しに来ていた。
古傷を抱える体はベストとはいえないものの、
日々のトレーニングと定期的な手入れの効果もあって、
今まで以上に柔軟かつ強靭に仕上がっていた。

小野と関わるようになって4年、まだ1勝しかしていないという戦績と
30半ばまでボクシングに拘る彼の人生に僕は単純に興味があった。
運送業や郵便配達をしながら、ボクシングに捧げた日常。
穏やかな人柄とその風貌もボクサーとは不釣合いなようで心惹かれるものがあった。
弱さも語れば、足りない部分も素直に認める。
彼は自分自身に嘘をつかない男だった。

戦績は1勝12敗2分――勝つにしろ、負けるにしろ、
小野にとってこの一戦はこれからの自分の人生へと、
新たな舵を切る試合となるに違いない。

【つづく】

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