2020年3月29日、日曜。春はもうすぐそこまで来ているというのに、どんよりと曇った空からは、ちらちらと季節はずれの雪が降り始めていた。その日、平井がS君を愛車に乗せて、うちへと連れて来た。シーズンに備えてのケア、スケジュールの合間を縫って、平井がS君の送迎を買って出てくれていた。

その数日前、新型コロナウイルスの世界的な流行によって、東京2020が翌年夏への1年程度の延期が決定していた。S君は2月末から3月上旬のアメリカ合宿を終えた後、大学でのスケート実習をこなし、疲労困憊の体をうちに整えに来た。
その時のS君は延期になった東京パラリンピックを、まだ視界に捉えていたと思う。1年延期になってしまった東京パラ、その時、S君は大学を卒業し、社会人となっている。平井が丁寧に足をケアした後、僕がS君の溜まった疲労を解した。気が付くと昼食の時間になっていた。
「ラーメンでも食べにいくか」
大のラーメン好きの平井の提案で、車で5分ほどのラーメン屋に繰り出した。もちろんノンアルコール、3人でカウンターに肩を並べて食べた。雪は少しずつ強くなってきたが、心は温かかった。会話の流れで前年の年の瀬に平井と2人、新宿で飲んだ話になった。サポートチームのたった2人の忘年会、2軒目は平井の顔見知りの店、新宿ゴールデン街にある小さなバーへと行った。
「来年、パラリンピックが終わったら、3人でそこに飲みに行こう」
ふと、思いついて今度は僕が提案した。「いいねぇ」と平井も笑う。S君が笑顔で「はい」と頷く。その時、S君の目標が、平井と僕の目標にもなっていた。

東京2020は1年延期になったわけだが、世間はそれだけでは収まらなかった。緊急事態宣言に伴う自粛要請の数々。日体大もその例外ではなかった。リモート授業への移行、グラウンドなどの施設の使用禁止。学生たちは学業でも部活動でも、不自由な日々を過ごすこととなる。
S君も例外ではなかった。大会も中止や延期があいつぎ、自粛期間に伴い実家の静岡へ帰省、ホームグラウンドでの練習環境を完全に失った。モチベーションやパフォーマンスの低下、新型コロナへの感染対策にも気を遣う状況で、S君はもがき苦しむ状態が続いていたと思う。
そんな状況でも環境に恵まれた選手や飽くなき闘争心で壁を乗り越え続けた選手たちもいる。そのことは、もちろん称賛に値するだろう。でも、大きな目標に向かっている中、全く出口の見えない状況にどうしても心や体が奮い立たない選手たちの気持ちも理解できる。
その年の7月、僕は帰省中のS君のことが気になり、沼津で接骨院を開業し、アスリートたちをメインにケアしている後輩の治療家を紹介した。早速、S君から「一度、行ってみたいので連絡をとっていただきたいです」との返事があり、モチベーションが維持できているとほっとした。ただ、後輩の治療家からは、S君が思うように練習ができていないとの連絡があった。
平井も僕もこの間、日体に入校することが制限され、選手のサポートはできる範囲で、うちで対応するようになっていた。しかし、S君のように帰省した選手たちはどうすることもできない。日々の仕事をこなしながら、サポートできるのは首都圏にいる選手に限られていたが、帰省した選手たちの様子は平井が頻繁に連絡してくれていた。年末、思い立って僕もS君にメールをしてみると、すぐに返信があった。
「お久しぶりです! コロナウイルス、まだまだ収まりそうにありませんね。今ですが引退を考えていてあまり練習をやっていません」
僕はS君の監督でもなければコーチでもない。ただ、自分の人生に悔いの残らない選択をして欲しいと思い、その旨をメッセージに託した。その後、大学の対面授業が一部再開し、部活動が再開されるに伴い、平井からS君は実家から大学の寮に戻ってきたとの連絡があった。その頃のS君はきっと心と体に鞭を打って、走り、跳んでいたと思う。
僕とはスケジュールが合わず、会うことはできなかったが、何度か大会にもチャレンジしていることは知っていた。ただ、以前のような7m越えを目指せるジャンプはできないままだった――。

2021年7月23日。東京オリンピックが、無観客の新国立競技場で開会式を迎えた。中止だ、延期だと騒いでいた大手メディアは手のひらを反すように、日本人選手の活躍をこぞって伝えていた。そんな時、約半年ぶりに社会人になったS君からメッセージが届いた。
「僕は日々、カーディーラーとして頑張っています。僕も大学4年間、陸上をやって色々な方と関わった経験が今の仕事に活きていると思います。体のケアでお世話になったことは忘れません」
S君はロングジャンプのずっと向こうにある、もっと、もっと大切なものに辿り着けたのだと思う――。

【おわり】
静岡県出身のS君は小学生からのサッカー少年、高校でもサッカー部に所属していた。憧れの選手は中村俊輔選手、S君は強豪校ではなかったが、サッカー王国と言われる静岡でその脚力が鍛えられていた。
その高校3年時、就職も地元の企業に内定していたが、体育の先生から陸上競技のパラリンピック発掘のプロジェクトがあることを教えられ、チャレンジする。合わせて日本財団が日体大のパラアスリートを助成していることも知った。日体大にはパラ陸上専門の指導者もいて、練習環境も整っている。進路を改めて熟慮し、両親、就職先など周囲の理解もあって、S君は日体大に通いながら東京パラリンピックを目指すことに決めた。

そこからは、眠っていた才能が努力と共に開花し始める。走り幅跳びだけでなく、100mでも好記録を出し、海外の大会にも積極的に参加、2017年の世界パラ陸上ジュニア選手権では、走り幅跳びT47のクラスで金メダルを獲得する。2019年のオーストラリア合宿では、同じ日体大の仲間たちと共にパラ陸上選手の指導に精通したオーストラリア人のコーチの指導も受け、本番の東京パラリンピックに向かって一歩一歩確実な歩みを進めていた。
僕は友人の平井を通じて、S君のサポートの手伝いをするようになったわけだが、平井のようにコンスタントに母校に行かれるわけではなかった。せいぜい、月1、2回。定期的なケアをするためには、うちに来てもらうしかない。それでも、S君は初対面以来、学業の合間や練習のオフを利用して、時々うちでケアを受けるようになっていた。目標はもちろん、東京パラリンピック出場、そして自分のベストを尽くすこと。そのために彼は日体大に入学し、陸上競技を志したのだ。

2019年11月、アラブ首長国連邦のドバイでパラ陸上世界選手権が開催された。日本のパラ陸上の選手たちも、4位以内に入賞すれば、翌年の東京パラリンピックの代表が内定する。S君も日本代表としてこの大会に臨んでいた。目標は7m以上の跳躍での4位以内入賞、この大会での東京パラリンピック代表内定がターゲットだ。
ちなみにクラス分けの表記の意味は、パラ陸上にはTとFの表記があり、Tは100mや走り幅跳び、マラソンなどのトラックを示す走競技と跳躍競技、Fはやり投げや砲丸投げなどのフィールドを示す投てき競技のこと。また障がいの種類によって、10番台から60番台まであり、障がい程度によって、程度の重い0から比較的軽い9となる。
S君のT47は、Tがトラック競技、40番台が低身長、筋硬直、切断(義足未使用)、関節可動域制限、筋力低下等の障がいのある立位競技者、7番が障がいの程度が7番目ということになる。※(参考・一般社団法人日本パラ陸上連盟 クラス分け委員会より)

テレビ放送の深夜、リアルタイムではなかったが、S君が出場するT47走り幅跳びの競技映像が放送された。ドバイの陽射しは眩しく、アスリートたちを照らしていた。
S君の跳躍の3回目、スタートラインから後方へ2回体を引き、力を蓄える。左腕にバランスをとるための義手はつけていない。スタート直後、逞しく振られた腕が、テンポよく動く。身体のぶれなく安定した走り、前髪がなびき、踏み切り板を右足がしっかりと捉えた。ダイナミックなジャンプだったが、目標の7mはもう少し先だった。跳躍後はちょっと不本意な顔が覗く。
成績は6m67で7位、トップジャンパーはみんな7mを越えてきている。残念ながら、この大会での東京パラリンピックの出場権には届かなかったが、今後の大会やランキングによってのパラリンピックが大きく近づいた大会になった。

競技後のインタビューでトップ8に入り決勝に残ったことや公認大会での自己ベストを称えられ、東京パラリンピックに向けてのコメントを求められた。
「1本目、2本目と記録が出なくて、3本目に懸かっていたところで、一応、8に残る記録が出せたことは大きかったと思います」
3本目に記録が出たことで、4本目以降の跳躍、実質的な決勝にS君は進めた。
「非公認の大会では、もうちょっと記録が出ていたので、今大会は7mを目標に頑張っていたんですけれど、まぁ、思うように記録が出なかったですね」
そして、こんな風に付け加えていた。
「非常に悔しい部分は多かったんですけれど、楽しんで行うこともできました」
画面越しのS君は、穏やかな笑顔の奥に悔しさを隠しながら、丁寧に答えていた。
目標の7m越えがすぐそこに見えてきたこの大会、翌年の東京パラリンピックに向けて、確かな足跡を残した大会のはずだった。

【づづく】
2019年10月27日、日本体育大学陸上競技大会。日体大の陸上競技部のサポートをしている友人で同期の平井武に誘われて、僕は選手たちのボディケアのサポートメンバーとして久しぶりに横浜市青葉区にある母校に足を運んだ。

平井はフットケアの専門家として、日体大の部活動に深く関わり続け、現在は物心両面で陸上部の短距離部門の学生たちをサポートしている。日体大の陸上部には珍しいパラアスリート部門もあり、東京パラリンピックを目指す有望な若者たちが集結していた。平井は日本では数少ないドイツ式のフットケアの専門家で、指導スタッフや選手たちからの信頼も厚い。その日、久しぶりの母校に感慨を深める間もなく、平井が早速、彼を連れてきた。
「まずはSをケアしてあげてよ」平井に言われるままに、S君と挨拶を交わした。
「競技前だけど、しっかり解すから思うような記録は出ないかもしれないよ。いいかな」
「大丈夫です、お願いします」
種目は走り幅跳び、S君は左肘関節のすぐ下部からの欠損による先天性の前腕機能障害、T47というクラスでの東京パラリンピックの日本代表を目指している。11月には、その代表権が懸かるパラ陸上世界選手権が控えていて、実戦調整として、この日の日体大での競技会に臨んでいた。
その時点でS君は3年生。穏やかで柔らかい眼差しの笑顔が爽やかだ。すらりとした体躯にさらりと横に流した前髪、今風でも、時代遅れでもなく、独特の雰囲気を持ったパラアスリートだった。しなやかで質の良い筋肉と程よい関節の柔らかさ。発展途上のロングジャンパーの本番での活躍に思いが膨らんだ。

その後は平井がサポートする短距離部門やパラアスリート部門の選手たちを順番にケアしつつ、空いた時間にS君の競技を見学に行った。健常者に混じっての競技、初対面の時とは違い、S君の顔は鋭く引き締まっていた。その後、数人のケアを終え、平井と帰り支度をしていると、パラアスリート部門の監督がS君を連れて来た。
「お陰様で、Sが自己新を出しました。申し訳ありませんが、最後にもう一度ケアしておいて頂けませんか」
6.74m――自己新記録を出したS君が監督の横で照れくさそうにしていた。

【つづく】
【ある日、彼は突然、思いついてしまう。オリンピックに出よう、と。その思いつきに彼は酔った。「もし、それが実現すれば」と、彼は思った。「なんとなく沈んだ気分が変わるんじゃないか。ダメになっていく自分を救えるんじゃないか」】
※「スローカーブを、もう一球」山際淳司氏著・角川文庫 「たったひとりのオリンピック」より引用

ふとした壮大な思いつきによって、自堕落な学生生活を脱しようとした津田真男さんは、ボート選手としてオリンピックを真剣に目指す。全くの素人、消去法で選んだ種目がたまたまボートだった。孤高のボート選手として、オリンピック出場を目指していた彼は、モントリオールオリンピックでの出場権を逃したものの、モスクワオリンピックで代表の座を掴む。しかし、日本選手団はオリンピックに参加しなかった。選手とは全く関係のない政治的な理由で――。

TOKYO2020――。ずっと何かを書こうかと思いつつ、溢れ出る負の要素の多さに触れることが、どうしてもできないままでいた。元々現在のオリンピックのあり方には賛成できないところが多い。商業主義、権威主義、勝利至上主義……平和への祈り、参加することに意義があるはずのオリンピックは、いつしか巨大な富が蠢くビッグイベントになっていた。新型コロナウイルスは奇しくも、そんなオリンピックの化けの皮を剥いだ。
だからと言って、僕はオリンピックに反対と言うわけではない。本来、スポーツは身体や心が解放され、それぞれの欲求に応じて、楽しみや自己実現を果たすことができる行為のはずだ。だからこそ、参加するアスリートたちも応援する人たちも、もちろん主催者たちも、ここを契機に立ち止まってオリンピックのあり方を、見直す時期が来ているのだと思う。そして、とうとう、開幕の日を迎えた。東京が緊急事態宣言下の真っ只中、ほとんどの競技が無観客で行われることとなった――。

そんな時、「たったひとりのオリンピック」で描かれた津田真男さんを思い出し、同時に忘れることができない、あるパラアスリートの若者のことを心に書き留めておこうと思った。彼は、東京パラリンピックを真剣に目指していた。

【つづく】

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