5月の連休、群馬へと足を運び、2人の人物の足跡を知る機会に恵まれた。1人は多くの人が名前ぐらいは知っているだろう「新島襄」。近年では大河ドラマの「八重の桜」の主人公、八重の夫として脚光を浴びた人物だ。もう1人は「四代目堀込左源太」。栃木で発祥し、群馬で大きく育った民謡八木節の担い手の1人。四代目左源太は、その宗家四代目堀込源太一門の名取として正調八木節を次世代へと伝え続けている。
新島襄は既に故人だが、四代目左源太は86歳になる今も尚、群馬の片田舎で正調八木節を唄い続けている。2人には群馬が生まれ故郷である以外、特に共通点はない。生きてきた時代も違えば、歩んできた道のりも交わるところはない。ただ、2人は共にどんなに時間がかかろうとも信じる道を歩み続けた。
5月3日、雨の予報だった上州の空は、うすい曇り空から晴れ間が見え隠れするようになっていた。群馬に来るといつも感じるのだが、ここには都会の緑にはない深さや匂いがある。時間に追われた都会の人間たちが休暇を使い、身を委ねる気持ちが良くわかる。襄や四代目左源太は、この緑溢れる山の国で生まれ、若き時代を過ごした。そして、それぞれ回り道をしながらも、襄は安中からアメリカへ、左源太は前橋から横浜へと旅立った。その後の安住の地は違ってしまったが、空っ風の吹く群馬の風土が2人の生き様に大きく影響したことは間違いない。

新島襄は天保14年(1843年)、安中藩士新島民治の長男として生まれた。ちなみに幼名は七五三太(しめた)と言い、男の子が生まれたことを「しめた、しめた」と喜んで父親が名付けたと言う。「襄」と言う名はアメリカに渡った時の呼び名からくるものだった。幼い頃から秀才としての頭角を現していた襄は、13歳で藩主に蘭学修業を命じられ、キリスト教に出会う。彼はキリスト教の自由と平和の精神に感銘を受け、脱藩し、国禁を破って、苦労の末に函館からアメリカに渡った。そこで近代の学問とキリスト教を10年間学び、アーモスト大学とアンドゥーバー神学校を卒業する。
襄が渡米中、日本は明治維新の変革期で、明治政府が彼の存在に目を付けた。政府は役人として近代国家の建設に協力するように襄に求めたが、それをきっぱりと断った。襄はその時すでに、日本にキリスト教に基づく大学を設立するという志を持っていた。襄が目指す自由な教育は、国家の管理の下では不可能だと考えていた。権力に屈服することなく、自分の意志を貫き、あくまでも理想を追い求める道を選んだ襄。そして、彼は心ある人たちの支援を得て、同志社英学校(同志社大学)の設立を果たし、多くの後継者を育成した。

一方、四代目左源太は昭和7年(1932年)に、9人兄弟の三男として生まれた。本名は羽鳥波雄。父、菊次郎は「波を雄々しく突き進め」との願いを込めて名付けたと言う。幼い頃から兄弟の面倒を見て過ごし、学校で学ぶことよりも、家事が優先される日常を過ごしていた。極めて頑強、力仕事や遠方への荷物の運搬も、左源太は腹を空かしながらもやり遂げた。現在、左源太は自宅の畑を耕し、山のように積み上げられた薪を割り、器用な手先で千代紙細工を作り上げる。幼い頃に培った頑強さは、86歳にして輝きを増している。
生まれ故郷の民謡八木節に情熱を燃やすようになったのは、横浜に出て、本業の治療院が安定して、子育てが一段落した頃からだった。近辺に暮らす同郷の仲間たちに声をかけ、四代目堀込左源太一門の前身「八木節上州赤城会」を立ち上げた。地道に稽古を積み、地元の文化祭やイベントに出演しながら、仲間との語らいのひと時を大切にしていた。
そんな折、栃木県足利市に八木節の宗家があることを知る。千載一遇の機会と捉え、左源太は独力で門戸を叩いた。美声を誇った四代目堀込源太師匠からは、厳しい指導を受けながらも、持ち前の努力と根性で、正調の八木節を自分のものにしようと必死に励んだ。そして、遂に宗家四代目源太の片腕、四代目左源太を拝命することになった。

旧中山道から案内に従って、車1台が精一杯の道に入ると住宅街の中に新島襄旧宅は佇んでいた(※実際の場所よりも50mほど西方へ移築されている)。木造の茅葺屋根、質素な作りの二軒長屋は安中市指定史跡にもなっており、無料で観覧できる。「八重の桜」が放映されていた頃は多くの観光客も訪れていたらしいが、私が訪れた時は連休中であっても、ひっそりとしていた。
入り口に行くと管理人の方が歓迎してくれた。入ってすぐ右手に土間があり、左手は簡素な居間と寝室と言う作りになっている。廊下に沿って続くもう一軒は展示室と管理人室になっており、管理人の方が襄の生涯を、展示物を見ながら懇切丁寧に説明してくれた。
明治7年、帰国した襄はすぐさま両親の住む安中のこの旧宅に3週間ほど滞在し、任地の神戸へと旅立つ。その後、明治9年に新島家が京都に引っ越してからはこの旧宅には他家の人が住んでいた。昭和37年に空き家になってことを契機に保存運動が盛り上がり、昭和39年に「新島襄旧宅」として安中市指定史跡となり、現在に至っている。
キリスト教布教と学校設立に全国を東奔西走した襄は、マラソンの距離を短距離走者のようなスピードで駆け抜ける人生を送った。その結果、晩年、前橋に来た時に志半ばで病に倒れ、療養のために大磯へと移り、46歳でその生涯に幕を閉じた。多忙の生活の折、襄の著書はひとつもないが、彼の教えに共感した人たちには、心の籠った手紙をいくつも書いている。このような襄の教育家、宗教家としての情熱は、逝去後も多くの信奉者を育てた。襄の志は後進へと受け継がれ、現在も日本の教育、思想に影響を与え続けている。帰り際、襄の旧宅を私は改めて仰ぎ見た。「本当の自由とは何だろう」と自分の心根に問い掛けずにはいられなかった。

新島襄旧宅を後にし、その足で前橋市にある四代目堀込左源太が暮らす家へと向かった。安中から前橋までは車で1時間と少し、車窓から見えた妙義山はいつの間にか赤城山に変わっていた。左源太の自宅の庭には大きな桜の老木が鎮座していた。母屋の隣、向かって右手には八木節の道場があり、左源太はここで日々弟子たちに稽古をつけている。
道場に入ると、正面に四代目堀込左源太一門の大きな壁掛けがあり、そこを中心に八木節関係の様々な写真が飾られている。初代から四代目までの源太の写真、師匠の四代目源太と一緒に紋付き袴で撮った写真、そして、数々の舞台で八木節を披露している写真など、左源太の八木節への情熱が伝わってくる。
左源太はこの道場で自らも稽古に励んでいる。その声に衰えは全く感じられない。八木節独特の節回しが腹の底から湧きおこる。多くの音頭取りが年齢と共に八木節の声を失っていくのとは反対に、左源太の声はまるで赤城山へと木霊するように朗々と響いていく。プロの民謡歌手にはあらゆる民謡を歌いこなす器用な人も多いが、左源太は正調八木節にひたすら磨きをかけてきた。ひとつのことを真剣に真っ直ぐに極め続けることで、年輪を重ね、声は磨かれ、他の誰でもない左源太ならではの正調八木節へと到達したのだった。

今回の上州の旅で、私は矜持を持って生きることの意味を強烈に教えられた。信念を貫くこと、道を極めようとすることは、誰もができる容易なことではない。何かを犠牲にすることもあるかも知れないし、与えることよりも失うことの方が多くなることもあるだろう。それでも、新島襄と四代目堀込左源太の生き方には、揺るぎようもない信念が、己の心にずっとあった。
帰り道、赤城山を背に群馬を後にする。駒形のインターから北関東道に乗り、関越自動車道へと車を走らせる。快晴、青く澄んだ空、遠く聳える山々もはっきりと見える。車窓からは昨日見た妙義山の姿も捉えることができた。妙義山と赤城山は、それぞれの個性を主張するかのように、どっしりと腰を据えていた。

※参考資料・「安中市指定史跡・新島襄旧宅リーフレット」

コメント

まるこ
2018年6月5日11:12

新島襄。懐かしいです。
私が唯一力を発揮できる上毛かるた。「へ」
平和の使い新島襄ですね。郷土の偉人です。

羽生遊
2018年6月6日8:46

まるこさんへ
父親の生まれ故郷が群馬ということで、
幼い頃から上毛の様々な場所に行くことができました。
手元にある「上毛かるた」のガイドブックをみても、
「おう!ここか」と思い出すところが、いくつかあります。

「上毛かるた」でまるこさんと勝負をしたら、
きっと僕の惨敗ですね(笑)

naochan
2018年6月13日21:26

ドキュメントを見ているようでした。
そう、羽生遊さんと一緒に見て回った気分です。

お二人の生き方に、しっかりせねばっ!と
背筋の伸びた気がします。

ありがとうございました。

羽生遊
2018年6月15日18:02

naochanへ
長文にお付き合い頂き、ありがとうございました。
恥ずかしながら「新島襄」に関しては、
ほとんど名前しか知らなかったのですが、
今回、その足跡を知る機会に恵まれました。

志を持ち、信念を曲げずに生きること、
簡単ではありませんが、僕も見習わねばと思いました。
ちなみにあまり触れませんでしたが、
左源太さんは、わが道を行く自由人でもあります(笑)

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