「おじいちゃんが起こして発展させた治療院を親父さんが守ってきて、
 僕が少しでも大きく強いものにしたいんだ。
 それで、どうなるかわからないけど、それを息子に託したいんだ」

息子のリョウが第一声で、そんな言葉を初代へと伝えました。
先日、息子と孫と三人で父親の暮らす群馬へと行きました。
話さなければならないことや、3才になった孫を見せたいこともあり、
父から孫まで四世代で顔を合わせました。

父が裸一貫で起こした小さな治療院でしたが、
その磨き上げられた技で、身を粉にして働き続け、それなりに発展させました。
受け継いだ自分は、未だ修行半ばの半端者ですが、
オンリーワンの矜持だけは、忘れずに家業を受け継いでいます。

これから先、どんな形でバトンタッチができるのか――

大なるものに属さずとも、時代に流されず、時にたった一人の孤独に耐え、
それでもなお、自分を貫く強さと優しさを大切に生き抜いて欲しい。
自分勝手に引き継ぐ者たちへの思いを抱いています。

「この仕事は一生修行だからな」

次世代への手ほどきを終えた初代からの言葉は、
シンプルながら、心に重く響くものでした。
母方の祖父祖母は近くのお墓に眠っています。

昨晩――
「今日はお父さんの命日だから」と、
母親が祖父が好きだった日本酒を一口なめていました。

仕事の合間、思い立って缶ビールを一つ買って、墓参りに行きました。
警察署長だった祖父ですが、穏やかなイメージしか僕にはありません。
塩辛やチーズを肴に、美味しそうにお酒を呑んでいた祖父。

一緒に飲むことは叶いませんでしたが、
祖父の武勇伝は僕の中で思い出として残っています。
「羽生さん、次の総理大臣は誰がいいと思う?」
仕事先である方に聞かれました。

僕の中では、今の政権政党中からは誰一人として、
頭の中に思い浮かびませんでした。
誰がやっても、結局、自民党の総理大臣だからです。

じゃあ、誰が良いのか――
答えは、自分の中に必ずあるはずです。
決して、諦めずに、しらけずに、
政治は僕らの中にあると思って……。
船尾滝にて・父と娘の約束
「ユイちゃん、あと何回も山には登れないから、この夏は来なよ」

今年2月、娘の唯と2人で群馬に住む父親に会いに行った日、
88歳の父親が23歳の孫娘に向かって、語っていました。
8月9日、その約束は果たされました。
船尾滝――落差72mの滝の落差がその約束の目的地でした。

父の軽自動車、タントでのドライブ。
すっかり安全運転になった父のハンドルで、
伊香保温泉の近く、吉岡町にある船尾滝を目指しました。

駐車場からの登山距離は大したことはなく、のんびり歩いて30分程度。
本格的な格好をしてきた娘は苦笑いの軽登山でした。
それにしても、父と娘と三代でまた歩ける喜びを感じながら、
思いの外、涼しい山道を談笑しながら歩きました。

目的の船尾滝は落差の割りには、迫力はほどほどで、
山奥の静けさと程よく調和しているようでした。

「来年は、また御巣鷹に行きたいな」
父が娘に向かって、また約束をしたようでした。
「ただし、生きていたらね」
父のブラックジョークに、娘も心配無用の笑みを返していました。

※テンガロンハット風の麦わら帽子は、ささやかな一発芸ということで。
なぜ、GO TOが良くて、帰省が駄目なのか――
なぜ、東京は休業要請で20万円なのか――
本当に無症状の人から感染するのか――

インフルエンザの方が亡くなった人も多く、
いわゆる感染者も多いのに、
何故、全く扱い方が違うのか――

報道を鵜呑みにするだけでは、
ことの本質にはたどり着けないように思います。
今、新型コロナをどんなものだと思っていますか?
8年前の娘――
写真家の友人、ノジョー君に撮って貰ったポートレート。
ずっと整理しようと思っていた写真たち。
制服姿の娘がカメラに向かって、微笑んでいる。

成人の時――
お世話になったクライミングジムで、振袖をなびかせている。

アルバムの中――
パソコンの中でもなく、スマホの中でもなく、
思い出が一冊の中にぎゅっと刻まれている。

娘に手渡そうと作ったアルバム。
ページをめくり、傍らに置いておきたい気分になっている。
ずっと思っています――

助けを求めている人たちに手を差し伸べられる社会にするのか、
それとも、ほっておいてしまう社会にしてしまうのか。

答えはそれぞれの心の中に必ずあるものと思っています。
その答えを導くにはどうしたら良いのでしょうか。

時代に流され続けるのではなく、
自分一人で立ち止まって、省みる必要があると思うのです。
何とはなしにマイペースの自分にしては、忙しい日々を過ごしていました。
新型コロナの影響も世間では色々様々とあるようですが、
自分はと言うと、4月から仕事の分量が少なくなったぐらいで、
特段、日常のペースを乱すことなく過ごしていたように思います。

先日は久しぶりに東海道も歩き、やっと戸塚まで辿り着きました。
江戸時代の人が1日で歩く距離を、昨年の正月から11回でやっとです(笑)
ゴールはまだまだ先ですが、生きている間にはと、のんびり考えてます。

先月末には久しぶりに父親に会いに群馬へと足を運び、
さすがにまだ空いている関越道をマイペースで行ったり来たり。
群馬はいつものようにゆるい雰囲気で、
大雨が降ったかと思えば、カッと晴れて、
僕自身もちょっとした骨休みになりました。
安倍さんが政権の座についてから、
庶民にとって、何も良いことがなかったと思います。
何が原因で、ここまで酷くなってしまったのか。

虚言を貫き、トカゲのしっぽ切りのように責任を擦り付け、
大切な文書を残さず、出さず、格好ばかり付けて……。
特定の企業や友達を優遇し、税金を私費のように使い、
森友学園の一件では、心ある国家公務員の命も犠牲になりました。

今回の河井さん夫妻の選挙に関わる買収のことにしても、
あまりにも酷過ぎる内容に、空いた口がふさがりません。
リーダーとして、責任をとることとはどういうことなのか。
身を持って、若者たちに示すことが最低限のことのように思います。

この社会は政治家や役人、そこに群がる人たちが、作るのではなく、
僕たち、市井で生きる人たちが真剣に考え、省みて、
創り上げていかなければと、改めて痛感してます。

僕たちは今、確実にモラル最低の政権下にいます――
高校生の男子が拳銃を用いて自殺した悲しい報道がありました。
「高校生がどうして、拳銃、なんで」
そんな思いが沸き起こり、報道にもその部分を強調するかのようでした。

そんな時、星田英利さん(以前はほっしゃん)のツイッターに目が留まりました。
僭越ながら自戒を込めて、全文を引用させて頂きます。

『高校生が拳銃自殺をしたのは、ショッキングでセンセーショナルで、悲しいかな恰好のワイドショーネタになってしまうだろうけど、われわれ受け取る側が絶対に間違えたらダメなのは、「なにで」自殺したかよりも、「どうして」自殺したかのほうが比べられないくらい圧倒的に大事だってこと。』

ニュースはその人の捉え方によって、大きく変わります。
星田さんのツイッターも、その一端を伝えてくれているようです。

権力側にとって都合の悪い真実を、考え、見極める力。
本当に、今、いや、もっともっと前から、
僕たちは試されているように思います。
「父の日にはちょっと早いけど、そうめん、送ったから」
「えっ、何、何の日」

群馬の父に電話をしました。
なんだか、電話が煩わしそうな感じ(笑)——

気が付けば、長男が明後日29歳となります。
所帯を持ち、一男一女を授かり、可愛らしくて、優しくて、
それでいて、しっかりと自分を持った嫁さんと、
小さくとも幸せな家族を積み上げています。

誰にも、時は平等に刻み、それぞれの時間を与えてくれます。

長男と同じ齢の頃、僕は結婚したばかりでしたが、
父親はちょうど僕ぐらいの年齢でした。
今の自分と違って、随分とどっしりとした落ち着いた雰囲気でした。

「今日、群馬暑かったでしょ」
「ああ……」
「月末にそっちに行く予定だから」
「……今、雲切仁左衛門見てるから」
「…………」

昔から時代劇が大好きな父、中井貴一に完璧に負けました(笑)
はっとする時があります。
テレビやネットから繰り返される情報の渦に巻き込まれそうになることを。

ドロドロの利権や限りない欲望、そこから発せられる表に隠された真実。
考えることを止めた瞬間に、流され、巻き込まれ、渦の中へ。

都合よく発せられるニュースの中に、表には出せない真実が必ずあります。
へそ曲がりかも知れませんが、本質を見極める力をもっとつけて、
次世代の人たちが、誇れる世の中になればと思ってます。

信じられる人たちは、たくさんいますので――

全国一斉に緊急事態宣言が解除されました。
その良し悪しは個々の判断になると思いますが、
僕の中ではその答えは出ていません。

ただ、いくつか思うことはあります。
今回の解除に至った経緯は、国のリーダーや自治体のリーダーたちの、
手柄でもなんでもなく、非常時の暮らしを、
必死に模索し続けたひとり一人の頑張りにあるということ。
色々な制約や要請があった中、誰もが自分で考え、自分で行動をしたはずです。

ある人はステイホーム、
ある人はできる範囲での仕事、
家にいる子供たちと貴重な時間を過ごした人もいれば、
暮らしを維持するために、薄氷を踏みつつ汗水たらした人もいます。
ここに正解、不正解は絶対にないと思います。
答えはひとつだけではなく、それぞれの立場、個々にいくつもある。
そして、まだまだ迷宮は続きます。

そして、もうひとつ――。
今回のウイルスが原因で亡くなった多数の人たちがいて、
今も尚、病魔に苦しんでいる方もいて、
やむなく家業を廃業した方や、借金を増やし必死にもがいている人たちが、
この国の至るところにたくさんいるということです。

他国と比較してどうのこうのではなく、
そんな人たちの存在が実際にあることに、
慈悲ある目を向けられる社会であって欲しいと願います。
そんな社会にできるか、できないか、
今、僕たちにも託されていると思います。
どんな場面でもいいと思うのですが、
政治のことはどんどん語り合い、伝えあった方がいいと思っています。

政治って、難しいとか、遠いところにあるものではなくて、
身近で関わる子供たちの教育のこと、高齢者の皆さんの看護、介護のこと、
今回のような非常時に関わる補償こと、仕事のことなど、
まず憲法があって、法律があって、それぞれに決め事や、取り決めがあって。
その上で、日常に関わってくるもの。

だからこそ、これおかしいよとか、なんか変じゃねとか、
もっと、こうした方がいいんじゃないとか、
政治って常に、自分たちの暮らしに関わってくると思っています。

例えば、今回の検察庁法改正案が見送られた世間の動き。
多くの人たちが、これでは絶対に駄目だと声を上げ続けた結果です。

政治を自分たち、周りの人たちに関わる身近なことだと実感できれば、
今まで、見ようともしなかったものや見せまいとされてきたもの、
仕方ないなと諦めさせられてきたものが、
今までとは違った視点が見えてくると思います。

政治を担っているのは、誰がなんと言おうと僕たち一般人ですから。
凄まじい勢いで「#検察庁法改正案に抗議します」が、
ツイッター上で広がりを見せています。

なぜ、一般人、著名人に関わらず賛同の声が上がっているでしょうか。
詳細は省かせて頂きますが、ただのトレンドというわけではありません。
このことが、民主主義の根幹を覆す重大なことだと、
様々な分野の方たちが、肌感覚で危機感を抱いているからだと思います。

僕も、どこにでもいる庶民として、普通のオジサンとして、
現政権の歩んて来た道のりを考えると今回の検察庁法改正案の提案も、
残念ながら、さもありなんと思ってしまうところもあります。

だからと言って、黙っていていいはずはありません。
今回のような流行性感染症、過去にもあった大災害、
行き過ぎた資本主義がための格差や無意味な差別主義の数々……。

これからどんな社会が理想なのか――
もちろん、それぞれに考え方があり、一長一短もあり、
意見の集約は容易いことではないでしょう。

ただ、今回のことで、僕が強く感じていることは、
例えば、「休業しないパチンコ店」が悪いのではなくて、
「安心して休業できないパチンコ店」がある社会状況にこそ、
大きな問題があるということです。

こうしている間にも、廃業している店や会社を辞めさせられた人たち、
そこまではいかなくとも、今後の暮らしに大きな不安を抱えている人たちは、
想像以上にたくさんいると思います。

生きること、生活を営むことが保障されていること。
社会がそんな状況であれば、安心して仕事を休むこともできるはずです。
今回に当てはめると、政府や自治体が強く要請している不要不急の外出の自粛や
一時的な安心しての休業にも自然と繋がり、
何よりも命の安全、健康の維持にも繋がっていくと思います。

そのひとつの方法に「ベーシックインカム(最低所得保障の一種)」があります。
生存権に則り、資本主義に社会主義的な要素を加えたような考え方です。
もちろん、保障の程度の問題や平等主義に関わるため賛否があります。

ただ、これからも多くの人に関わる苦しい社会状況はあるでしょう。
生きること、暮らすことに少しでも安心感があれば、
辛い時の度合いが、随分と違うと思うのです。

今、為政者たちを批判する時ではないという人たちもいます。
でも、今だからこそ、見えてくるものに、
小さくとも声を上げることは、これからのためになると思います。
金曜の朝、カミサンより一足早く目が覚めると、
ネコのマーニーが、珍しくひと足先に朝を待っていた。

それでもいつものように、一口水を飲んで、新聞を取りに出る。
風の強さを頬に感じて、ごみをいつもの場所に出す。
誰もいない朝、これもいつもの朝――

気が付けば、5月1日。
「よっしゃ」と気合いを入れて、
いつもと大して変わらぬ今日に備えた。
以前にも引用させて頂いた「心の傷を癒すということ」。
今、社会がこの状況だからこそ、心に響く言葉がありました。

——(前略)
日本の社会は、人間の「力強さ」や「傷つかない心」を当然のこととしてきた。また、バブル経済期の際に、モノやカネだけが幅を利かせる、いささか品のない風潮が全国に蔓延した。人間の心の問題などは、省みられなかった。しかし阪神・淡路大震災によって、人工的な都市がいかに脆いものであるかということと同時に、人間とはいかに傷つきやすいものであるかということを私たちは思い知らされた。今後、日本の社会は、この人間の傷つきやすさをどう受け入れていくのだろうか。傷ついた人の心を癒すことができる社会を選ぶのか、それとも傷ついた人を切り捨てていくきびしい社会を選ぶのか……。

※「心の傷を癒すということ」(安克昌氏著・角川ソフィア文庫)・第Ⅲ部 災害による〈心の傷〉と〈ケア〉を考えるより引用

今、書き写させて頂きながらも、
心の奥底がどうしようもなく揺さぶられています。
緊急事態宣言に伴い、苦渋の選択で仕事を休むことを選ぶ人、
今日明日を生きるために少しでもと、断腸の思いで働き続ける人がいます。

僕はそのどちらも否定することはできません。

今、厳しい現実を突きつきつけられて、
もがいている人たちが全国にたくさんいます。

そんな厳しい現実の中、働く業者を地方自治体に報告する人たちがいて、
その業者を公表すると言う地方自治体の長たちがいます。
悲しいなと思います……優しくないなと思います。

命を何より大切に思い、感染を広めてはならないこと、
自分がそうであってはならないことなど、もう誰もがわかっているはずです。
それなのに何故、働かなければならないのか――

そんな人たちに、少しだけ寄り添える気持ちがあれば、
もっと違う対応ができると思うのです。
「国民の暮らしこそ社会生命」と言う友人がいます。

自分自身を戒める意味でも、
怒りの矛先は、間違ってはいけないと感じています。
LIVE PASSとデモテープ
「NOV 29 1992」――

LIVE PASS にはその刻印が押されていた。
デモテープに挟んだ28年前のライブのチケット。

親友ののりまきが、横浜の港の近くにあるライブハウスで、
ギターを弾き、歌った日のものだ。
29才だったシンガーの、のりまきとリスナーの、僕のしるし。
それは、ずっと自分の仕事場の片隅に置かれていた。

久しぶりにデモテープをカセットデッキに入れ、のりまきの声を聴く。

『君のことでワカラナイトコアル けどでも
 探らないで そのままそっとしておく』—「HOPE」より

当時の僕は、酔いに任せて、その歌詞に文句をつけた。
「付き合っている者同士ならわからないことはそのままじゃ駄目だろ」と。
のりまきは、物わかりの悪い友達を諭すように、
「付き合いって、そうじゃないんだよな」と言っていたと思う。

今ならわかる気もする……恋人であれ、夫婦であれ、友達であれ、
全てがわかり合えれば良いというものではないことも。

久しぶりにそのデモテープをデッキに入れ、
アナログなやわらかいその音に耳を傾けた。
のりまきの声は、青くて真っすぐだったが、
それを聴いていた当時の僕は、青くて真っすぐだったかは定かではない。

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