特に根拠もなく、他者や自分と違う意見や主張をする人たちを、
強く、厳しい言葉で批判する傾向が最近多いような気がします。

そんな時、なんとも言えないむなしい気持ちになります。
特にネットの世界では匿名性もあってか、
人格を否定したり、攻撃したり、
おいおいと思ってしまうこともしばしばです。

少し前に書いた、安田純平さんの件もそうですが、
最近、沖縄でハンストと言う意志表示で、
県民投票の全県実施を訴えた若者に対して、
心無い言葉を投げかける人たちがいます。

人はお互いに持ちつ持たれつで生きているわけですから、
例え、その人の行為に疑問を持ったとしても、
その思いの伝え方を、批判する権利はないと思います。

表面的なところではなくて、
何故、その人がその行為をしようと思ったのか、
本質的なところに思いを向かわせる必要があると思うんです。

小説「火花」(文春文庫・又吉直樹氏著)の中にも、
そんなことに触れている部分があります。
年末年始に再読し、改めて考えさせられました。
湯島天神にて
正月2日、穏やかな陽射しを浴びて、初詣へと出かけました。

今年は娘が国家試験を控えていることもあり、湯島天神。
午前、早い時間に出掛けたおかげで、
30分ほどの行列で、お参りをすることができました。

カミサンに長男家族と次男、娘と彼氏。
家族で過ごすことができる幸せを感じながら、
手を合わせ、甘酒で喉を潤しました。

今年は何が成せられるのか――
夢を託しての正月でした。

遅ればせながら、本年も宜しくお願いします。
久しぶりに三人揃った小川さん家族に会いました。
弘資さんと和美さん、そして中学生になったショウタ君がそこにはいました。三人の間には穏やかな雰囲気が漂い、遠目からも笑顔が溢れていました。「絆」と言う言葉がぴったりの三人です。

13年前、僕はクライマーとしての弘資さんと和美さんを取材し、そのツアーについて書かせて頂きました。結婚して間もない二人は新婚旅行にモロッコのクライミングツアーを企画しました。そんな折、和美さんがお子さんを授かり、安定期を待って2人は日本人として、東洋人として初めて、モロッコ、タリーアの岩壁へと挑みました。厳しい行程を越え、巨大な岩山に挑み、暑さや水、食べ物と格闘し、二人は見事にツアーをやり遂げました。それ以来、弘資さん、和美さんとはお付き合いさせて頂き、運営する「クライミングジム・アラジン」に時々お邪魔し、クライミングの楽しさを教えて頂いています。

弘資さんはクライングの普及に尽力し、敷居が高いと思われがちなクライミングに誰でも楽しめるような環境を提供してくれています。そんな弘資さんを和美さんは支え、時に引っ張り、「アラジン」は上級者、家族連れ、障害を持った子供たちなど、様々な人たちに認められたアットホームなクライミングジムになっています。

13年前、和美さんのお腹の中にいたショウタ君は将棋が大好きな少年に成長しています。もちろん、ご夫婦と一緒にクライミングや登山も楽しんでいます。弘資さんと和美さんのお子さんらしく、明るくて優しい男の子です。三人の姿を見ていると僕の気持ちも明るくなって、たくさんのパワーを貰うようでした。

以前書いた「絆」の最後の場面を添えさせて頂き、本年のブログの締めと致します。1年間、本当にありがとうございました。


「絆」 ※S-move主催・スポーツライター新人賞参加作品より引用

2006年1月24日――。
弘資と和美は東伊豆の城ヶ崎海岸にいた。生後2ヶ月の翔太を連れての初めてのプライベートクライミングだった。
首が据わっていない翔太をしっかりと抱きしめて岩場へと向う。久しぶりのアウトドアでのクライミングは気持ちが良かった。1月にしては穏やかな陽射しが3人に降り注いでいる。
弘資は海岸の岩の上で横になった。波の音がなければタリーアのような静けさだ。思えばあの時、和美のお腹の中にいた翔太もタリーアを登った。その子が今、紛れもなく自分の隣にいる。
和美はいつか弘資と翔太と3人でマルチピッチを登りたいと思っている。それは決して遠い夢ではなく、現実としてすぐ傍にあるような気がしていた。
4年ぶりに父親が横浜に来ました。
厚木にいる僕の妹の家に寄り、その足(タント)でうちに来ました。

孫たちに囲まれ、ひ孫の成長に頬を緩めて、
一夜の家族の団らんを楽しんでいるようでした。

帰りは父の運転するタントに便乗して、僕も空っ風吹く群馬へ。
息子の運転は信用ならぬとばかりに、
86歳の父は、環八を抜け、関越、北関東道と
ひとりでハンドルを握り続けました。

いつもの師走より少しは暖かな群馬も、
さすがに横浜に比べれば、風は冷たく頬に沁みます。

56歳の息子との一日は、父親にとってはどんな日だったのか。
前橋まで送って貰った翌日。
電車に揺られてクリスマスイブの群馬に別れを告げました。
穏やかな風、穏やかな気持ち
友人の写真家、ノジョー君のパートナーのともこさんは、
動物の刺繍をメインに手掛ける刺繍作家さんです。

巡り合い、縁があって、うちの猫の刺繍を作って頂きました。

先日、茅ヶ崎の海沿いの場所で、その刺繍展がありました。
犬や猫、そしてウサギ……うちの猫の刺繍もそっと飾られていました。
どの作品も、ともこさんの穏やかなお人柄を表すように、
優しく、僕たちに微笑んでくれているようでした。

穏やかな気持ちになりました。

湘南のゆるく、ほんわかした風に身を任せながら、
夫婦二人で、のんびりとした時を過ごしました。

※写真は作って頂いた作品とうちの猫
ひと昔前ならば、
「無事で良かった」
「大変だったよな」
「紛争地でのお仕事、お疲れ様でした」……

内戦の地で奮闘しているジャーナリストの無事の帰還に、
そんな労いの言葉が溢れていたと思います。

いつの頃からかでしょうか——
僕たちの知ることができない世界の現実を、
必死に追い続けるジャーナリストを否定する人がいるようになったのは。

考え方や人の行動に対して、様々な意見があっても当然です。
ただ、命の大切さを伝え続けようとしているジャーナリストに、
棘のある行為をすることは、間違っていると思います。

安田さんの帰還―—
命の大切さを改めて見つめ直す機会になりました。
うちから歩いて数秒のところに老舗の酒屋さんがあります。
もちろん、お酒だけではなくて、食料品の類や雑貨類、
少し前なら地域には必ずあっただろうお店です。

息子さんの代になってもお店は続き、地元では立派な繁盛店です。

仕事が終わると、ふらっと行くことがあります。
今日はちょっとしたお祝いに娘と飲む日本酒を買いに行きました。

新しいアイスが入ると、「羽生さん、このアイス美味しいですよ」と、
勧められるままに買ってしまうことも度々。

何気ない会話をしながら、お酒のうんちくを聞いたり、
お互いの子供のことを話したりと、
昭和っぽい付き合いができるのも、嬉しいところです。

窮屈な世の中になってしまったと思うこともしばしばですが、
近所の酒屋さんは、僕にとっては大切なオアシスです。
少し時が経ちましたが、先日沖縄県知事選挙がありました。

結果はご存知のように、翁長前知事の遺志を受け継いだ形で、
玉城デニーさんが当選しました。
支持母体、対抗の方との関係性、多々あったとは思いますが、
沖縄の方たちの強い民意を感じる選挙結果だったと思います。

無責任に沖縄のことを語るわけにはいかないと、
沖縄の現状について、自分なりに調べてみました。

沖縄の人たちの心の奥底からの怒り、悲しみ、嘆き……
戦中戦後の沖縄の歴史を垣間見ると、
今回の選挙結果は当たり前のことと思うのです。

そして、もっと大切なことは、
沖縄の人たちの決断は、僕たちへも受け渡されたというです。
天災によるどうしようもない嘆きは、
一体、どこに持っていけばいいのでしょうか。

いつも思います。
大自然の前に人は余りにも無力だということを……

だからこそ、自然とどうすれば共存していけるのか、
考え続け、感じ続け、畏敬の念を持ち続けることが、
自然の中で、ただ生かされている僕たちにできる、
せめてものことなのかもしれません。
ひょんなことから、人と人とを繋ぎとめることに8月の後半を費やしました。

人のためにと思うことは、間違っていることもあるのでしょう。
自分の言葉に力がないのか、それとも寄り添う心が足りないのか。

人はどうしたって、それぞれの道を進むわけですが、
ささやかでも良いから、光の見える方向へと願うばかりです。

人生、いつまで経っても勉強、勉強です。

とんぼと父と青い空
とんぼと父と青い空
とんぼと父と青い空
頂上は夥しい数のトンボと、清々しい空気が待っていました。

少しばかりの夏休みに、父の暮らす群馬へと妻と行き、
86歳の父と3人で恒例の山登りをしてきました。

父親の提案で登った赤城の長七郎山は、
ハイキングのように楽しめるコース、
険しい道は少なく、自然を満喫しながらの登山でした。

青い空、そうかと思うとあっという間の靄。
それでも山の涼風は、日頃の憂さを晴らしてくれます。

「今回は大したことなかったなぁ」

健脚を誇る父には、ただただ感心するばかりですが、
何歳になるまで一緒に山を登れるのか、
そんな思いもよぎりました。

約1時間45分の行程、スタート地点の小沼のほとりでお握りを食し、
随分と安全運転になった父のハンドルで、長七郎山をあとにしました。
広島原爆の日、長崎原爆の日、
そして、終戦記念日……

戦後生まれの僕には、当事者の方たちの気持ちにはなれるわけはありません。

それでも——
「戦争に何一つ良いことはない」、
「戦争は二度と起こしてはならない」と、
次世代へと伝え続けなければならないと思うのです。

もちろん、その思いは人それぞれ。

でも、たった一人の命より大切なものはないはずです。
ちょっと歩いてくるか――

仕事を終え、思い立って久しぶりに近くの公園に散歩に行きました。
母校に近いその公園を、高校時代は嫌と言うほど走りました。

暑さ真っ盛りの猛暑の今日も、少しだけ陽が短くなり、
夕暮れ時はほんの少し、涼を感じます。

所々にいる野良猫たちも、のんびりと夕暮れ時を過ごし、
犬の散歩やランニングに来ている人たちは数える程でした。

緑深い公園からは、夏を謳歌する蝉たちの宴が響きます。

どんどん暗くなる公園をゆっくりと歩いていても、
残念ながら無の境地にはならなくて、
何故か青春の頃の気恥ずかしい思い出ばかりが膨らみました。

それでも、蝉しぐれと共に心地良い疲労感に浸りました。
比較的、体力のいる仕事をしています。

若い頃は、仕事が終わってからたっぷり運動をしたり、
友達と遅くまで飲みに行ったりしても、
次の日にはすっかり元気になっていました。

当たり前ですが、40、50と年齢が進むにつれ、
体力や回復力が衰え、仕事にも必要以上のガッツが必要になりました。

バランスだな……
ある時、そんな風に思いました。

自分の体調や、翌日の予定を考えて、
疲労と休養、ストレスと適度な発散、緊張と弛緩などなど、
バランスが大事だなと思うようになりました。

あまりにも暑い夏ですが、早朝の風は意外と爽やか。
散歩とまではいきませんが、早朝の空気に触れるのも悪くはないものです。

だからと言って、バランスを意識し過ぎて、
窮屈になってしまっては本末転倒。
何事もほどほどですね。それって、バランスか(笑)
5月の連休、群馬へと足を運び、2人の人物の足跡を知る機会に恵まれた。1人は多くの人が名前ぐらいは知っているだろう「新島襄」。近年では大河ドラマの「八重の桜」の主人公、八重の夫として脚光を浴びた人物だ。もう1人は「四代目堀込左源太」。栃木で発祥し、群馬で大きく育った民謡八木節の担い手の1人。四代目左源太は、その宗家四代目堀込源太一門の名取として正調八木節を次世代へと伝え続けている。
新島襄は既に故人だが、四代目左源太は86歳になる今も尚、群馬の片田舎で正調八木節を唄い続けている。2人には群馬が生まれ故郷である以外、特に共通点はない。生きてきた時代も違えば、歩んできた道のりも交わるところはない。ただ、2人は共にどんなに時間がかかろうとも信じる道を歩み続けた。
5月3日、雨の予報だった上州の空は、うすい曇り空から晴れ間が見え隠れするようになっていた。群馬に来るといつも感じるのだが、ここには都会の緑にはない深さや匂いがある。時間に追われた都会の人間たちが休暇を使い、身を委ねる気持ちが良くわかる。襄や四代目左源太は、この緑溢れる山の国で生まれ、若き時代を過ごした。そして、それぞれ回り道をしながらも、襄は安中からアメリカへ、左源太は前橋から横浜へと旅立った。その後の安住の地は違ってしまったが、空っ風の吹く群馬の風土が2人の生き様に大きく影響したことは間違いない。

新島襄は天保14年(1843年)、安中藩士新島民治の長男として生まれた。ちなみに幼名は七五三太(しめた)と言い、男の子が生まれたことを「しめた、しめた」と喜んで父親が名付けたと言う。「襄」と言う名はアメリカに渡った時の呼び名からくるものだった。幼い頃から秀才としての頭角を現していた襄は、13歳で藩主に蘭学修業を命じられ、キリスト教に出会う。彼はキリスト教の自由と平和の精神に感銘を受け、脱藩し、国禁を破って、苦労の末に函館からアメリカに渡った。そこで近代の学問とキリスト教を10年間学び、アーモスト大学とアンドゥーバー神学校を卒業する。
襄が渡米中、日本は明治維新の変革期で、明治政府が彼の存在に目を付けた。政府は役人として近代国家の建設に協力するように襄に求めたが、それをきっぱりと断った。襄はその時すでに、日本にキリスト教に基づく大学を設立するという志を持っていた。襄が目指す自由な教育は、国家の管理の下では不可能だと考えていた。権力に屈服することなく、自分の意志を貫き、あくまでも理想を追い求める道を選んだ襄。そして、彼は心ある人たちの支援を得て、同志社英学校(同志社大学)の設立を果たし、多くの後継者を育成した。

一方、四代目左源太は昭和7年(1932年)に、9人兄弟の三男として生まれた。本名は羽鳥波雄。父、菊次郎は「波を雄々しく突き進め」との願いを込めて名付けたと言う。幼い頃から兄弟の面倒を見て過ごし、学校で学ぶことよりも、家事が優先される日常を過ごしていた。極めて頑強、力仕事や遠方への荷物の運搬も、左源太は腹を空かしながらもやり遂げた。現在、左源太は自宅の畑を耕し、山のように積み上げられた薪を割り、器用な手先で千代紙細工を作り上げる。幼い頃に培った頑強さは、86歳にして輝きを増している。
生まれ故郷の民謡八木節に情熱を燃やすようになったのは、横浜に出て、本業の治療院が安定して、子育てが一段落した頃からだった。近辺に暮らす同郷の仲間たちに声をかけ、四代目堀込左源太一門の前身「八木節上州赤城会」を立ち上げた。地道に稽古を積み、地元の文化祭やイベントに出演しながら、仲間との語らいのひと時を大切にしていた。
そんな折、栃木県足利市に八木節の宗家があることを知る。千載一遇の機会と捉え、左源太は独力で門戸を叩いた。美声を誇った四代目堀込源太師匠からは、厳しい指導を受けながらも、持ち前の努力と根性で、正調の八木節を自分のものにしようと必死に励んだ。そして、遂に宗家四代目源太の片腕、四代目左源太を拝命することになった。

旧中山道から案内に従って、車1台が精一杯の道に入ると住宅街の中に新島襄旧宅は佇んでいた(※実際の場所よりも50mほど西方へ移築されている)。木造の茅葺屋根、質素な作りの二軒長屋は安中市指定史跡にもなっており、無料で観覧できる。「八重の桜」が放映されていた頃は多くの観光客も訪れていたらしいが、私が訪れた時は連休中であっても、ひっそりとしていた。
入り口に行くと管理人の方が歓迎してくれた。入ってすぐ右手に土間があり、左手は簡素な居間と寝室と言う作りになっている。廊下に沿って続くもう一軒は展示室と管理人室になっており、管理人の方が襄の生涯を、展示物を見ながら懇切丁寧に説明してくれた。
明治7年、帰国した襄はすぐさま両親の住む安中のこの旧宅に3週間ほど滞在し、任地の神戸へと旅立つ。その後、明治9年に新島家が京都に引っ越してからはこの旧宅には他家の人が住んでいた。昭和37年に空き家になってことを契機に保存運動が盛り上がり、昭和39年に「新島襄旧宅」として安中市指定史跡となり、現在に至っている。
キリスト教布教と学校設立に全国を東奔西走した襄は、マラソンの距離を短距離走者のようなスピードで駆け抜ける人生を送った。その結果、晩年、前橋に来た時に志半ばで病に倒れ、療養のために大磯へと移り、46歳でその生涯に幕を閉じた。多忙の生活の折、襄の著書はひとつもないが、彼の教えに共感した人たちには、心の籠った手紙をいくつも書いている。このような襄の教育家、宗教家としての情熱は、逝去後も多くの信奉者を育てた。襄の志は後進へと受け継がれ、現在も日本の教育、思想に影響を与え続けている。帰り際、襄の旧宅を私は改めて仰ぎ見た。「本当の自由とは何だろう」と自分の心根に問い掛けずにはいられなかった。

新島襄旧宅を後にし、その足で前橋市にある四代目堀込左源太が暮らす家へと向かった。安中から前橋までは車で1時間と少し、車窓から見えた妙義山はいつの間にか赤城山に変わっていた。左源太の自宅の庭には大きな桜の老木が鎮座していた。母屋の隣、向かって右手には八木節の道場があり、左源太はここで日々弟子たちに稽古をつけている。
道場に入ると、正面に四代目堀込左源太一門の大きな壁掛けがあり、そこを中心に八木節関係の様々な写真が飾られている。初代から四代目までの源太の写真、師匠の四代目源太と一緒に紋付き袴で撮った写真、そして、数々の舞台で八木節を披露している写真など、左源太の八木節への情熱が伝わってくる。
左源太はこの道場で自らも稽古に励んでいる。その声に衰えは全く感じられない。八木節独特の節回しが腹の底から湧きおこる。多くの音頭取りが年齢と共に八木節の声を失っていくのとは反対に、左源太の声はまるで赤城山へと木霊するように朗々と響いていく。プロの民謡歌手にはあらゆる民謡を歌いこなす器用な人も多いが、左源太は正調八木節にひたすら磨きをかけてきた。ひとつのことを真剣に真っ直ぐに極め続けることで、年輪を重ね、声は磨かれ、他の誰でもない左源太ならではの正調八木節へと到達したのだった。

今回の上州の旅で、私は矜持を持って生きることの意味を強烈に教えられた。信念を貫くこと、道を極めようとすることは、誰もができる容易なことではない。何かを犠牲にすることもあるかも知れないし、与えることよりも失うことの方が多くなることもあるだろう。それでも、新島襄と四代目堀込左源太の生き方には、揺るぎようもない信念が、己の心にずっとあった。
帰り道、赤城山を背に群馬を後にする。駒形のインターから北関東道に乗り、関越自動車道へと車を走らせる。快晴、青く澄んだ空、遠く聳える山々もはっきりと見える。車窓からは昨日見た妙義山の姿も捉えることができた。妙義山と赤城山は、それぞれの個性を主張するかのように、どっしりと腰を据えていた。

※参考資料・「安中市指定史跡・新島襄旧宅リーフレット」
アメフトのルール無視の暴挙が話題になっています。
当事者の学生には勇気ある告白への拍手が、
指示を出したとされる指導者たちには、非難の声が沸き起こっています。

あまりにも行き過ぎた勝利至上主義――

今のスポーツ界を見ると子供のスポーツからプロスポーツまで、
勝つために子供たちから本来のスポーツの楽しみを奪い、
手段を選ばないやり方が横行しているような気がします。

スポーツはそもそも遊びから始まったものです。
体を動かすことに喜びを感じ、心が震え、
勝ち負けだけでは収まらない楽しみを感じることができる行為です。

勝ったことを称賛するよりも、負けたことにがっかりするよりも、
もっと大切なことがスポーツの本質にはあると思うのです。
残念ながら、またひとり、
悪しき権力に真っ向から立ち向かう方が亡くなりました。

岸井成格さん――
骨太のジャーナリストとして、憶することなく権力に立ち向かい続けた方。

その志と真のジャーナリスト魂は、後進にきっと伝えられたと思います。

もちろん、たったひとりのあまりにも小さな存在の庶民の僕も、
岸井さんのジャーナリスト魂を見習いたいと思っています。
仕事を通じてある男性の方と知り合いました。
その方はすでにリタイアされ、
奥様と二人、静かで穏やかな日々を過ごしています。

「ずっと平で通したから、年金も少ないんだよ」

言葉とは裏腹に、自分の生き方を貫いた誇りに溢れた眼差しでした。
その方は、管理職や平社員に関わらず労働環境の改善に尽力し、
会社と真っ向から対峙し、やるべきことをやり遂げた方でした。

そして、会社のことだけではなく、原爆の被爆者の方たちに寄り添い、
仲間と共に国と交渉をし、自分の時間を他人のために使ってきました。

「自分の人生、やり残したことは何もないんだよ」

そんな言葉を格好つけではなく、真っ直ぐに堂々と語ってくれました。

欲なき欲――

今まで使ったこともない言葉が、ふと思い浮かびました。
自分探しの心の旅に出た人は何人もいると思います。

若い頃は思いのままに、突っ走ったり、
失敗を恐れずにチャレンジしたり。
また、その反対に高い望みに希望を失ったり、
夢破れて、どん底を這いずっていたり……。

それなりの歳になってしまったせいなのか、
自分の生き方について、あれこれと考えることが増えました。

過去を振り返り、今を見つめ、さぁこれからどう生きるのか――
ひとつだけ、青い心はずっと持ち続けたいと思っています。
手を繋ぐ
日曜日、長男夫婦に近くの公園に花見に行こうと誘われました。
八分咲きの公園は穏やかさも相まって、たくさんの人たちが来ていました。

お嫁さんお手製の弁当を頬張り、孫と戯れるひと時。

「手を繋ぐと結構、歩くんですよ」

トモナッチ(お嫁さん)の一言にやってみるかと、
カミサンと二人で1歳を過ぎた孫の小さな手を握りました。

もごもごと何かを喋りながら、一生懸命に歩く孫。
決して歩みを止めようとはせず、健気に歩き続けます。

そんな孫の姿に、愛おしさが増しました。

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